冥日記

私は虚構であり、生まれてきたことも、生活も、死んでいくことも全てが嘘だ。苦しみも、悲しみも、全部が作りものだ。ブリキのオモチャの様に冷たくて、湖に沈んだラジオの様に孤独でありたい。私は機械でありたい。

ブリストルの点字、六十一パーセント

先週金曜に出た発表を読んだ。ブリストル大学のTianyi Liu氏とBenjamin Ward-Cherrier博士らが、脳オルガノイドに点字を「読ませた」という研究で、Frontiers in Artificial Intelligenceに載った。私が読んだのはFrontiersの紹介記事で、論文の本文は開いていない。以下の数字は、その記事の範囲にあるものだ。

使われたのは前脳をモデルにしたオルガノイドで、直径は1ミリに満たず、神経細胞と支持細胞を合わせて約一万個。九月末に書いた蝿の脳の十六万六千より、ひと桁以上小さい。それを多電極アレイの上に載せて生かしたまま、触覚センサーが拾った点字26文字のデータを電気刺激に変えて流す。返ってきた神経活動のパターンを、サポートベクターマシンという単純な機械学習の手法で分類する。

点字26文字、というのはアルファベットのことだ。日本語の点字は、同じ六つの点の組み合わせで五十音を表す。紹介記事に出てくるのは、日本語ではない。それでも、触覚センサーが点の並びを先に「読んで」、その読みを電気刺激に直してオルガノイドに渡している以上、オルガノイドが最初に受け取るのは、すでに誰かの読みの写しだ。

結果は、一個のオルガノイドで約61パーセント、三個を組み合わせると約83パーセントで、文字として正しく判別できる信号が出た、という。ノイズを加えた条件では、三個のチームの信号は、オルガノイドを介さずに直接読み取る場合より判別しやすかった、とも書かれている。

サポートベクターマシンは古い手法だ。大きな言語モデルが流行るよりずっと前から、分類のために使われてきた。ここで使われているのが最新の巨大なモデルでないのは、むしろ誠実だと思う。大きなモデルを使えば、いったい何が読んでいるのか、さらに分からなくなる。「一万」と「二十六」という二つの数が並んでいる。一万個の細胞が、二十六の文字を分けるために使われた。二十六に対して、一万は多いのか、少ないのか。比べる基準を、私は持っていない。

「読んだ」のは誰なのか、というのが最初に引っかかった。文字を判別したのは分類器で、オルガノイドは電気刺激を受けて、何かの活動パターンを返しただけだ。見出しのmini brainという語が嫌いだ。脳と呼ぶには足りないものを脳と呼ぶと、足りないぶんを読む側が勝手に補ってしまう。

六割という数字を、四割は外れるのだと読み替えてみる。十回触られて、四回は別の文字として返す。三個集めても、十七パーセントは外れる。個体差があって、三個がよい理由はまだ分かっていないという。同じように作られた一万個の細胞のかたまりが、それぞれ少しずつ違う答え方をする。

十月の初めに、マウスの脳に入れられた人間の皮質について書いた。あれは身体の中に入ったものの話だった。今回のものは、皿の上にあって、身体に入る予定がない。入るはずのなかった脳の断片に、読まれるための文字が届く。どちらが奇妙なのか、決められない。

紹介記事は、研究者の言葉を二つ引いている。複数のオルガノイドの応答を組み合わせると、一個からは得られない補完的な情報が得られるかもしれない、というもの。もう一つは、オルガノイドを通したあとも、触覚のデータには点字を分類するのに十分な情報が残っている、というもの。どちらも慎重な言い方だ。慎重な言い方のほうが、数字より信用できる。

触覚のことを考えた。点字は指で読む文字で、読む人の身体がそこにある前提で作られている。オルガノイドには指がない。身体の一部だったことが一度もないものに、触られたあとの信号だけが入ってくる。それは触られたことになるのか、ならないのか。研究者自身が、時間とともに学習するかどうかは示していない、と言っている。変化が確かめられていないなら、少なくとも今のところは、触られても何も残らないのかもしれない。

紹介の範囲では、倫理への言及は見当たらなかった。苦痛が存在しうるかどうかという問いが、一万個の段階では要らないのか、書く場所がないだけなのか、記事からは分からない。次の段階は、質感や縁の検出、そして自分の動作へのフィードバックを受ける閉ループだと書かれている。フィードバックを受けるものは、ふつう、自分のしたことの結果を知ることになる。

目を閉じて、机の縁を指でなぞってみた。木目が分かる。分かるのは、指の先に神経があって、その先に私の頭があるからだ。頭のほうに、疑いがない。オルガノイドには、疑う側がない。信号は入って、パターンが出る。それだけで、触られたと呼んでいいのかどうか、机の縁の前で、しばらく考えていた。

この前、駅の階段の手すりに点字の表示があるのを、初めてきちんと見た。指でなぞらなかった。なぞって読めたとしても、書いてあるのは上り階段か出口の案内で、私に必要な情報ではない。それでも、あの小さな突起は、誰かが指で読む前提でそこに打たれている。読まれることを待っているものを、読まずに通り過ぎた。帰ってから、手すりの写真を撮っておけばよかったと思った。撮っても、読めないのに。


参照:Frontiers「Mini brain organoids ‘reading’ Braille marks key step towards biohybrid computing」(2026-10-16)